くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

考えるための記録

毎日書いていく方が、やっぱり心身にとっては良いことに気づかされている。記録することをまとめて整理するために悶々と考える時間を多く取るよりは、ひとつひとつのことを綴ってみるほうが、なんとなく自分自身を把握しやすく、自己管理しやすい気がする。

 

今日、どんなことを思った?もっといえば、どんなことが印象的だった?どうすればよかった?そんな自問自答を深く考えて、いまできる最前のことをしてみること。毎日すぐに変わることはできないけれど、少しずつ変化をもたせて、慣れてみるようにして。いつだって、自分がよくわからなくなるときがある。どうしてみようか、と思うことはいっぱいある。そんな心にぼんやり残ってくことを、こうやって記録しながら整理していったほうがスッキリするもの。それでも常に移りゆくもの。大切なことさえ鮮明でもなくなってしまう。だから、嫌な事ほど教訓にしてつぎ。みたいに考えよう、と思う。いつだって死ぬまで現在進行形。

 

カラダのけだるさにここ数年間、毎日悩まされてきた。寝起きは悪く、やる気は起きづらかったり、疲れやすかったり…

なんせ、今まで子育てのために不規則な生活というのもあったのだと思うけど、いちばん大事なのは、バランスの良い食事と適度な運動と休息なのだ、と気づいてくるそんな年頃。

 

どうしても疲れて気力が湧かなかったり、偏頭痛に悩まされる日には、生活上どうしても薬に頼らなければならないけれど、栄養ドリンクを飲んでみると少し軽減されることに気がついたときがあった。こういう手段はあまりよくないはずだから、この際によし、簡単に料理だけでは摂取できないなら、サプリを取り入れてみよう!と思い、初めての購入を決意した。

飲み始めているが、調子が全然ちがうといったら…!何事も程よいバランスが大事で、加えるか、減らすか、様子をみてその日の状態を常日頃調整しなければならならないな、と思う。

 

 

 

この前、やる気が起きないとか、自分にとって無意味なことだと思えることに対して、なんともやる気が起きないなあ、とふと考えさせられる瞬間があった。

 

がんばりたい時って自然と言葉数が増えること。あと、その場の雰囲気とかもある気がするけれど、雰囲気がピリついているとか、中途半端な知り合いが多いという場合では、どうも自己を発揮できにくいこと。なにか不穏な空気感というか、誰も信用できないよね、というような人間関係を感じると、どうしてもグッとやる気が冷めてしまう。はたまた、むしろ知らない人が多いほど気になることも多くて、気になって話してみたくなることもある。多分、気質でもあるだろうし、なんというか、やっぱり自分ってマイペースなんだろうなあ、とも思ったりもする。

 

この前、いつも唯一みている占いにこう書いてあった。

“自分にとって欲しいものや欲しい時間がハッキリして、いらないや結構です、関わりたくないです、みたいなこともハッキリしていく。静かな人間関係の整理、それぞれの持ち場で戦っていってる人を尊敬し、一緒にいたいと願ってくる。人間関係も、できることも広ければいいってもんじゃないみたいなという感覚を持っていく。それでも、話せる人の意見も聞いてその冷めた部分も補って人生の発見にしていく機会も多く持って──”

 

そんなことが、わお、今のまさにわたしじゃんか!と妙に腑に落ちてしまった。

 

客観的にというわけでなく、自分からみたときのものごとを測ってみることも大切であるし、ほんとにこれがいいことなのか?そうありたいのか?いや、こうじゃなくてこうしていくのがいいよね、と自分のやり方で生きてみよう、とまた背筋をピシッと伸ばしたくなった。

 

 



 

 

 

 

 

毎日新しい

 

今日は、2ヶ月ぶりに次男の通院へ。短期間の間で成長を感じた瞬間がいくつかあった。脳の意識?細胞レベルで?なんだか変わっている…メディアもみず、ただ話をしながらいつもより1時間長く過ごしたのに、以前になく落ち着いていた。院内を歩くときも、駆け足になるのを抑えて歩くようにもしていたし、場をわきまえたマナーみたいなものへの意識が感じられた。

(ひょっとすると、私と同じくらいの態度だったかもしれない)

 

脳に未経験のことや新しいことを行わせようと何度も要求すると1つまり現在していることをやめて別のことをしようとすると1脳は次第にそれをうまくできるようになる。脳は活性化されることを好む。やめることは、脳のエアロビクスのようなものなもの、だというのを思い出した。

 

いつも付き添う立場であるけれど、いつも全てを先回りして助言をしたり、隣に立って、本人の意思というものを生み出せない気がする。自力で一歩踏み出せるために。気持ち一歩引いて。後ろでそっと見守りながら。考える時間を。多く発見できる時間を。

成長するたびに手が離れていく名残惜しさもあるけれど、成長する機会が一日でも多くあることが、子に対する親の幸せと願いかもしれない。

多くは親に似てほしくない面もあるから。反面教師でいこう。

 

毎日の子供達の姿をみていると、ほんとうに天真爛漫だ。

何かに向き合う時の表情、姿勢がキラキラしている。時と場合も考えて足並み揃えていかなければならないこともあるだろうけれど、大人になってできない後悔があるのならば、いっそのこと納得いくまで痛いほど経験して、トライアンドエラーを重ねて、その数だけ踏ん張っていっていけるようになってほしい。“周りがこうだから、こうするのが当たり前なんだ。ということは、事情によっては必ずではないはずだから。客観的に物事をみながら、何か自分なりの模範を見つけて、たのしく幸せに暮らしていけますように。

 

プラスの言葉を日頃使っている人たち、配慮や思慮深い人たちと話してみると、自然と気分がいい。人によって感銘を受ける場所もどことなく違っている。

発言に対して向ける言葉返しというのは、いつも悩まされるし、意識から放たれる言葉、受け取る言葉は、とても慎重になければならないときもある。受け取ったとしても変換することは、いつも重要だということ。

 

 

 

昨年の庭。いま思えば、なつかしい。

今年は芽吹くものが多くなった。

カモミールがつぼみをどんどんふくらませて、はじめて咲くところ。

 

大切にすべきことへ焦点をあてる

 

また幾つかの本を売りに出した。

人気がある本だといって自分自身に残したい教訓になるわけではなく、本を読んでいて大事なのは、客観的に考えてみて、また新しい自分の中の広い視点をもっていくこと。

 

家で完結して愉しめることが多くなってきてからのこと、すっかり近所付近の外出の楽しさがわからなくなってきて、心身のストレスもかなり減った。家の庭に一歩踏み出せば、自然とやるべきことがみえてくるようで、雑念も減り、頭の中も整理されてくみたい。

庭仕事をしていると、カエルやハチや蝶、その他虫たちが続々と現る。お互いにせっせと暮らし共存している感覚になる。これだから自然にいると心地いい。

 

限りある一日の時間の中で、やるべきことだけこなしていく。ほんとうに必要なことって、ここだけは大切にしたいとか、この時間はあえて自分の幸福や為になると思えること。何か変化が起きそうなこと。身の回りにある近くのことを新鮮な目で、大切に、感謝して、見つめ直すこと。

 

少し肌寒いくらいの清々しい朝。気温は20度前後とベランダで朝ごはんもたのしくなる頃。

今朝も次男と歩いて登園。自然に触れてリラックスしながら家族との時間を過ごすのも、お互いにとっていい作用が自然と働く時間。

どうやら次男はとくにまだ若いからもあって、いろんな物事に対してぶつかりやすかったり、考えることが多くあるみたい。まだ何がどう良くないのかもうっすらしかわからない時期なのもあるだろうし、たぶん、本人の性格上のこともありそう。(たぶん私に似ているような?と思い当たるふしがある🫢)
小さな事でも話し合ってみて、なんでこうなるのか、ものごとの状況への理解が深まるきっかけになればいいな。そのために母として、ひとりの人間としてまだまだ頑張ります。

 

言葉で吐いたものを一つ一つやってみようって言う。

 

言葉と思考の中でぐるぐる回らないで前に進まなきゃいけない時だって。

 

大地とカエルのように、私たちも冬眠から目が覚めて、うごめいて鈍くなった5つの感覚を次々と起こして、ドアを開けて外の世界に足を踏み入れなければならない時だよ。ー<韓国エッセイ>conte De Printempsー

 

 

 

 

暮らしをシンプル化させるために

自分が書いたものは、なるべく見返さないようにしているけれど、数ヶ月ぶりに読み返してみた。やっぱり恥ずかしい。恥ずかしさがあるのはもちろん、過去の自分の書いた文章には違和感もあったりして、現在進行形で書き続けてみるのがよさそう。それでも、いつも変化している。

 

書いてもよくまとまらない時がある。

ここ最近も回りくどいようなずいぶん長いまとまりのない日記だったような気がするが、整理されてない時は自分自身の状態のような、自分自身の心の表れそのもののように感じる。

 

 

とある論文によると、どうやらネガティブな思考や感情を紙に書き出すと、私たちの脳は、あたかも思考がモノになったかのように錯覚し、それを破いて捨てることで、本当に思考をゴミ箱に捨て去ったような気分なるみたいだそうな。

 

たしかに、私が書いている理由もまた、まさにここのような気がする。

ただ、具体的な自分自身の本音を見つめ直し、受け入れながら書き出してみること。

いったんつらつらと書いてみたまとまりのない文章も、一旦寝かせておいて、次の日に見返してみて書き直して整理整頓をすること。

 

 

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紙の本を読むときのほうが、脳波が高い周波数帯、特にベータとガンマの帯域で高いスペクトルパワーを示したそう。これらの周波数は、より集中力が高まり、脳をよく使っているときに発生するらしい。

紙の本だから読めるということも頷ける。

デジタルは、目にツンと刺すような光がとても不快に感じやすいのもあるし、少し情報から離れて目の前にあることに集中して、たのしむことができる。

 

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あいにくの雨の週末だった。毎週、何をしようか?と考えることにも嫌気がさしてくるときもあって、何もしないでゆっくり過ごそう、と休息第一デーにすることにした。

子どもたちとゲームをしたり、Netflix鑑賞でゆっくり時間が過ぎるのを感じてみると、ゆっくり考える時間も確保でき、あれこれ考えながら愉しむ方法が思い浮かんできたり、いつも当たり前のことが当たり前だと思わないで目の前にあることに集中すること、行動に対して考え直してみることができ、新しい風が吹いてくるような幸福感も得られる。

休息とは、いったん自分が好きなことや過ごす時間に集中する時間を取ることで、気づけることがある。新しい視点や捉え方を得るためには、何か変わったことをしてみるのもいいし、取り入れてみるのもいい。

整理されない時こそ、休息と余裕と内観のマインドセットが必要な気がする。

また、小さな日常での発見や幸せに気づくことができる。

 

メディアが悪影響ばかりではなく、情報や刺激性の過多は取捨選択しながらうまく付き合わなければならないけれど、自分の好奇心や興味を持つ対象を見つけるようになり、知りたい事を自主的に調べ、解決してみようとする姿勢が子どもたちも私自身にも思い当たる。

 

良くも悪くも、どちらの点でも気になることがあれば、どうすればいいのか?とその対処法を探し出すために考える姿勢は必要で、知りたいものを知識として蓄え、独自の視点や新しい自分の人生の知恵に変えていくために。学習する一歩として。ゲームも子どもたちにとっての人生のトライアンドエラーで工夫するには良い方法かもしれない。敵キャラやキャラの特徴を抑えててクリアしていくためにはどうすればいいのか?たしかに、成功法を探しながら何度も試して勝利率を上げていっている。たださせるのではなく、一緒に観察して一緒にしながら6歳と4歳の息子たちに確実に、腕前を追い越されていくのをみて内心微笑ましくてしょうがない。

何をどういう風にみて、うまく活用していくかは無限大のような気がする。

子どもたちをみていると、常に好奇心をもって、新しい物事に取り組むことの大切さをより感じる。

 

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朝は、以前に比べるとずいぶん活動的になってきた。まず、長男を見送り、次男と一緒に幼稚園まで歩いて見送りから一日が始まる。

それから、庭を徘徊しながら探検をする。今日は、コーヒーカスと残飯と枯葉、余った土を混ぜてコンポストに混ぜて土を作り、発酵させてみた経過観察をしてみたけれ

 

家事の合間にラジオ感覚でお気に入りのYouTuberを流し、合間にはコーヒーブレイクもする。あとは、日によってすることは違ったりするが、子どもたちを迎えにいくまで内観時間に使う。

 

 

庭で咲いているハーブたちを次男と摘んで愉しんだ。疲れやすいカラダに心なしか効いている気がする。咳も落ち着いた。

いつも愉しんでいることも私にとっては、特別だ。

ゆっくり休暇を取ることも、何をして過ごす大切なのかも、何にこだわらないのかも…

 

 

昨年植えたグランドカバーが咲いた。今年の庭はどう変化するやら。たのしみ。



 

 

人生を愉しむために

 

 

長男はいつも天真爛漫だと思う。自分の好奇心に純情で、何くわない顔で楽しそうに物事取り組む。もちろんすべてがそうではなく、本人なりの反発心や取り組み方への抵抗感も日に日に感じられてくる成長も感じる。また、誰かと同じようでは気に食わなかったり、自分なりの探究心をもっているように思える。それがときには親かすれば、心配だったり一歩間違えれば大ごとになりかねないことだったりする懸念は多い。

それでも、それをあえて口を挟みすぎたりはしないようにしている。本人の中できちんも事柄に対して付き合えるようことが落ち着いたあと、一人の意見として感想程度に述べてみる。きっと本人なりの線引きがあったり、きちんとわきまえているかのようにも思えるし、まだその自己探求の真っ最中だから。人間生きていれば常に人と人は違うものだから息子に口を挟んできたり、物申してくる人たちもいるはず。親として静かに見守りながら、なるべく尊重して自らで体験して、自覚していくという前提のもと付き合っているけれど、きっと、私もその中の一人だ。何かいえば、息子にとって、有害になりうるのかもしれないと警戒はしていきたい。

 

そんなこんなの考えがとくに頭の中に渦巻いてくる最中、最近夫のおかあさんが言ってくれた言葉に安堵したというか、肩の荷が降りた気がしたことがある。

「親の顔色を伺うことなくすくすく育ってきている子だから大丈夫。何が失敗でもないし、たとえそれが失敗に思えてもそれもまた成長する機会。私にとっても子育てが一番の人生勉強になったわ。何を言ってきたとしても子によってまったく受け取り方も生き方も違った。親は子供にとって反面教師なの。親が子どもにできたことなんてほとんどないようなものなのよ。」

 

また、今後も息子に余計な心配事を口走って言いすぎないようにしよう、と改めて思った。

いま現在も息子は人生の正常運転中でもあり、長所でもあり、生き方への進むべき方向を見定めている。

親としては、そっと寄り添い、話を聞いてみて頷いたり、背中を押す方へそっと手を差し伸べてみるしかない。

 

遊びも危険との隣り合わせでもあると思う。

とあるゲームの創立者は、ゲームの世界の冒険や、洞窟の中に入っていく怖さなど、そういうのは、僕らが子どもの頃に、すぐ近くの、近所の中の世界にあった」といっていたそう。つまり、大ヒットしたゲームの世界の原点には、「自分が子どもの頃に遊んだり、冒険をしたりした、野山などの近所の遊び場」があったという。

 

大人になっても忘れずに、その原体験を重ねていくほど、何か自分にとっての得られる広い世界観になるのではないか。わからないことを試しながら理解を深めていく個人の戦略的なものを掴めていけば、自然と自分が知らなかった世界へと繋がっていくような、「外部に繋がる回路」も開かれやすいのかもしれない。

 

 

 

とある研究結果によると、自己概念を明確にすれば、不健康な食事、肥満、アルコール濫用、スマホ依存、ムダな買い物などの問題が減るんじゃないかって言われているそう。

 

自分の望んでいるような人生観がある程度自己認識できていれば、不要なこと、不必要なことの選別ができていく気がする。ここは、こうするべきじゃないな、とか、こうした方が自分にとっては清々しくて快適だと感じるようなことが。生きていく時間が多くなるほど原点に戻るというか、再確認することも多くある。また新しい自分も知っていく。常に変化にともなって学んでいくことは、多い。

 

 

庭仕事をしていると、カエルやハチや蝶、その他虫たちが続々と現る。お互いにせっせと暮らし共存している感覚。とくに、忙しなくて疲れやすいときほど、自然にいると心地いい。

 



 

 

日々変わってく人生観

取りかかりにく問題は、いつも身の回りに起きている。決して、いつもうまくいっているとも思えないし、常にこれでいいのか?と自問自答しながら毎日を振り返って考えてく、の連続。どれがいいことなのかもわからないけれど、自分なりの方向性は正しいと、ときには信じることしかできない。そんな今ある複雑な心境を溜めたままにして消化しないままでいることのないように、メモしたり、綴っておくようにする。

頭の中で考えているだけでは、うまく整理できない気持ちをあえて言語化し、表現するところから一歩踏み出している気がする。

 

いま行動している半径5メートルくらいのことに対してどう考えていこうか?と思いながら、良い風向きのするほうへ意識のを向けていると、やるべきことが見えてくる感じがする。庭仕事をしていても、庭にでて観察すれば、今やるべきことが見えてくるように。

起きていることは自分のせいなのか、相手のせいなのかを考えることなく、自分自身がその物事についてどう向き合って、対処していくのかが一番大事なのかもしれない。人生の価値観というやつ。

誰も接し方が同じようだと感じることはなく、いつも程よい緊張感をもっている。どれがいい悪いでもない。

人によってそれぞれ対処法、解決策は違うのだと、そう思う気持ちが日々を重ねて増すようになってきた。

 

 

幸せを感じるためにはいつも幸せを探さなければならないし、幸せを持続させるため小さな努力、変化させることも必要だ。

いつも少しでも自分の気持ちをスルーして見落としていれば沼に入りやすく、なかなかでられなくなってしまう。いつも見渡す景色を注意深く考えてみる気持ちでいなければならない。

いつも周りと自分の観察を続けながら、あれこれ試してみたうえで、自分なりの物事の理解が深まる、改善されるというよりは、日々物事に対しての抵抗感が減り、感覚に慣れていくという感じがする。

 

 

✳︎

 

普通に話をするということは難しいもの。けれども、不思議と息子たちには話せてしまう。

長男は、特に話し上手でいつも取り繕うことなく、誰にでも接することのできる天才ではないだろうか、と時には思ってしまう。柔軟なのに、人情もあって、かつ、きちんと自分のなかの芯を持っている。本人なりに毎日の鬱憤や起伏はあるようだが、それをあえて恥じることなく話してくれるからこちら側も把握しやすい。

二人の息子には、生まれてきて赤ん坊の頃からでもよく話すことを心がけてきた。耳から入る情報を伝えていくことで、徐々に年を重ねていくたびに、口からもいつしか情報を伝えあうことができるようになったいま、二人の息子たちは母よりも口達者でおしゃべりになった。いま思えば、幼い頃は私もあんなにおしゃべりだったのに__という感情を思い出させてくれたのも、息子たち、夫のおかげじゃないかな。たわいもない話から親密感も深まっていく気がする。ある程度回数を重ねていくと、誰とでも会話が広がっていく気がすることもあれば、見知らぬちょっとした面識のある人たちともある程度は会話できるようになってみても、上辺状の内容の薄い会話を繰り広げるのは相変わらず違和感がある。

それなのに、息子をみていると、ここまで深く考えてなかったようにも思えてくる。

あと1ヶ月で7歳という長男。自分の時と比べるとこんな感覚だったかな?とよくわからないけれど、子供の頃でもきちんと意思を持っていたはずだということを思い出させてくれる。

 

心地のいい長男と過ごすからか、見慣れている人でもスムーズに話すことへの違和感は少なからず生じる。もちろん慣れ親しんで、会話をする量と質が違うからだろうけれど、会話ってこんなにも難しいものなんだっけ?と、ふと思わずにはいられなかったりする。

考えてみれば、会話で不自由しない人というのは、どこかなんでも話を聞いてくれるようで、白黒はっきり判断をせず、助言をすることなく、親身になって一生懸命乗り越えられるよう寄り添ってくれることが力になる。話す速度関係なく、会話の内容の受け応えが充実しているからか、時間が過ぎてほしいと感じる煩わしさがない。いつも自分の気持ちを理解してほしいと思わずにはいられないけれど、理解してもらいたい思うことは、あまりにも貧欲な気もするる。だから、ここは、気をつけたい。

 

人間同士、ある程度の境界線は必要であるし、距離感も上手に測らなければならない。下手に懐に入り込もうとすると、大怪我にもなる。話を親身になって聴いてくれる、受け応えてくれる、打ち明けてくれる、共感能力が高い、助け合える存在がいることは、珍しいことでもある。多ければいいということでもなく、煩わしさが増える気もするし、あまりにも自分の殻に閉じこもってしまって余計なことを考えるのも心身によくない。離れすぎずくっつきすぎず、それでも話ができる人。ほどよい距離感は大切に感じる。

 

少なからず会話できていると感じる存在とは、限りがある。相手を尊重し合い、いつでも心に寄り添ってくれるようなそんな幸せな気分になるそんな人。その機会とめぐり出会えることは、心底ありがたい気持ちになる。

 

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ガーデニングについて新しい情報を得た。

雑草や枯れた植物を刈って、空いている土の面や育っている植物のマルチングに使用する方法。重ねていけば、ふかふかの土壌になり、肥やし要らずだとか。同時に、雑草も生えてこなくなる。自然のものはうまく活用すれば、廃棄するものもなくなり、また時間が経てば、再利用できる。土に埋まっている石も直径3センチくらいでなければ、発育に支障ないのだとか。焚き火もして、残った炭も畑にまいて、土壌を活性化させる。

庭の植物たちもどんどん芽が膨らんで花も咲いてきて、今年は見たことのないほど多くの自然界の来客たちが勝手に自然の営みを働かせにきてくれている。毎日庭に出て観察することがすっかり日課の愉しみとなり、癒しの場になった。これから庭にでる機会が増えそう。

庭仕事は毎日が新鮮で、飽きがこない。

 

いくつかのハーブの種や苗を購入した。

今まで貯めてきたメルカリポイントを使って、生活面にうまく活用できるように、と。

春になって芽吹いてぐんぐん成長してきたミントは、根本部分を切って挿し水をして根っこが生えてきたら植え替えをしていく。

動きやすさと煩わしささえなければ、出不精で庭仕事する人間は、快適さと衣類に対する時間の削減を重視するようになるみたい。

自分にとっての有効な時間と幸福を感じるお金と時間の使い方。以前の自分から考えると、どうやらここが欠けていたみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

迷いながらも進む日々

あらかじめはっきりと線を引いておいて、それを越えたらその先は一歩も進まないと拒むことなどできない。
時には、失敗を成功への足がかりにしなければならないこともある。

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希望と絶望のあいだで、
絶妙なバランスを保たなければならない。(中略)
結局、すべてはバランスの問題なのだ。
ーロヒントン・ミストリー著「A Fine Balance』(未訳)

 

 

白黒はっきりさせると、逆に進む方向に迷ってしまうこともある。

はっきりしないことは、片隅に置いておいて、大事なことほど大事にしていけばいい。

 

 

 

長男が入学式を終え、いよいよ学校生活が始まった。

以前よりも朝一時間もはやく長男が登校するため、早起きをして送り出す。そのあとに次男を通常通り見送る。最近は天気もよく穏やかな朝のなか、次男とたわいもない話や目に映る景色を愉しみながら歩いている。

 

 

考えてみれば、あれこれ目先の心配は多いけれど、まだ起きていないことはある程度想定はしておきながらも、そっと見守りながら様子をみていく。いま、起きているひとつ、ひとつのできごと、行動を用心深く見つめながら、今後の人生に何か役立つのかわからない話だけれど、なんでも子どもたちには話してみておくことにする。(余計なお世話かもしれんが)

 

不安はいくらでも作ることもできてしまう。下手にその心配の方ばかりに目を向けるのはやめておこう、と思う。誰と比較しているだろうか?と思わずにはいられないし、比較はやめられない。それでも、見よう見まねから自分の進む方向性もなんとなく気づいていけるもの。誰かと自分は似ているようで、明らかに違う部分もある。マッサージをするように思いをほぐし、ほぐして、どこがどうなってるのか、掴めるような気持ちを探して。

 

結局、いつも誰かに、なにかに動かされている。家族でもあり、ヒトとヒトだけじゃなく、身近な生活の中にあるモノ、起きるできごとにも。良くも悪くも、慣れることにいつまでも敏感で、歩く感覚をいつも新鮮な感覚で、見晴らしをよくして物事を深く考えて。少しの変化は、変化を呼ぶ。

 

まだ忙しない中、内心新しい環境に対して、何から考えてみようか?と考えて、心の中があっちやこっちに行ったりで気が逸れては、頭の中がフル稼働し、エネルギー消耗しやすい。日常で自分の心配よりも相手を思っての心配も多くある。そんな見慣れない時期には、バタリと寝転がってしまったら、なかなかすぐには起き上がることができないで、熟睡もできず、寝起きも快調ではない。そんなとき、睡眠と休養と活動のバランスをうまくやりくりしていかなければならない、と思い直す。無理は禁物。無理な場合は、新しい可能な方法でやりくりしていけば、一日はなんとか無事に終わってくれる。

 

きっと本人なりにうまくやってくれるはず。この子の性格なりにうまくやろうとするだろう。なんて、遠目で陰ながら見守っていけたらな、といつも子どもたちにはこんなことを思わずにはいられない。そして、自分自身にも問いかけている。

“最後に、有効な場合にはデータを使うこと、家族に合った決定をすること、できることをすること、そして(ときには)考えないようにすることを願って、乾杯しよう!”ーやめる力ーより

ちょうど本から思うこととまったく同じような文が綴られていた。

 

 

いつもほどほどのプレッシャーを感じながら、日々のハリを感じ、自分の人生を踏み締めるように一旦立ち止まって考えてみる。あらゆる方向から考えて、場合を想定したうえで、物事という自分の課題に対して、できる最善の方法を考えてみることは、たとえ無意味だろうと、過程の中で、少なくとも意味は持ってくるはず。

 

 

誰にでも未知のことには表情がぎこちなかったりする。いつだって目には見えない不確かなものを含んだ未知のことだらけでソワソワする。わからないことをわからないなりに少しでも多様に解釈できるように小さい脳みそで、どうしたらいいんだろうか?と考えてみる。いつだって、誰も不安だ。消えるわけではない。誰だって無知からスタートするから継続して努力するから。

 

歩く、家事をする、合間にコーヒーをただ座って味わって飲む、読書に集中する…そのつ、一つの感覚を意識してみれば、自分の人生を大事にしていことを踏み締めながら、気づき、考え直していける気がする。一種の瞑想法にもなる。

そんなこんなで、嵐のような時間の中でも春のように穏やかな時間を感じ、また新たな時間が過ぎていくのを感じている。

 

 

読書もひとつの気分転換に欠かせない。

最近はずっと買ったばかりの本を暇さえあれば読んで、読んで、考えている。

文章は、なんでここまで夢中になれるのか。同じ文章を何度も何度も読んでみてもまた新鮮で、別の考えが浮かんで、解釈に終わりがないように思える。これもまた、人生かな。いろんなものをみて、ずっと残り続けるものは自分の人生の一部として血肉になるのかも。

 

「少年の日の思い出」も貯めたポイントを図書カードに変えて購入した。

ヘルマンヘッセの並べられた言葉の文章が、心に入り込んでくる。

 

 

「自分の手ではどうにもならないこと」を手放す

「私は、自分の身に起こることは必ずしもコントロールできないと学んだの。自分の手でなんとかなるのは、時間の使い方だけ。学べているか、成長できているかと自問しながらね」

 

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やめることは、イエスかノーか、生きるか死ぬか、今やるか一生やらないか、というような極端な形をとる必要はない。必ずしも、すべてを吹き飛ばしたり、すべてを片づけたり、すべてをなかったことにしなくてもいい。わずかだが重要な軌道修正をすることも、やめることになるのだし/こうした小さな変化は、すべてを一度にやめるのと同じくらい重要なものになり得る。これは何もないところからやり直すのではなく、すでに知っていることを活かしながら前に進む方法だ。

 

ジュリア・ケラー「やめる力」より 二節

 

 

 

 

 

 

 

 

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