くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

日々変わってく人生観

取りかかりにく問題は、いつも身の回りに起きている。決して、いつもうまくいっているとも思えないし、常にこれでいいのか?と自問自答しながら毎日を振り返って考えてく、の連続。どれがいいことなのかもわからないけれど、自分なりの方向性は正しいと、ときには信じることしかできない。そんな今ある複雑な心境を溜めたままにして消化しないままでいることのないように、メモしたり、綴っておくようにする。

頭の中で考えているだけでは、うまく整理できない気持ちをあえて言語化し、表現するところから一歩踏み出している気がする。

 

いま行動している半径5メートルくらいのことに対してどう考えていこうか?と思いながら、良い風向きのするほうへ意識のを向けていると、やるべきことが見えてくる感じがする。庭仕事をしていても、庭にでて観察すれば、今やるべきことが見えてくるように。

起きていることは自分のせいなのか、相手のせいなのかを考えることなく、自分自身がその物事についてどう向き合って、対処していくのかが一番大事なのかもしれない。人生の価値観というやつ。

誰も接し方が同じようだと感じることはなく、いつも程よい緊張感をもっている。どれがいい悪いでもない。

人によってそれぞれ対処法、解決策は違うのだと、そう思う気持ちが日々を重ねて増すようになってきた。

 

 

幸せを感じるためにはいつも幸せを探さなければならないし、幸せを持続させるため小さな努力、変化させることも必要だ。

いつも少しでも自分の気持ちをスルーして見落としていれば沼に入りやすく、なかなかでられなくなってしまう。いつも見渡す景色を注意深く考えてみる気持ちでいなければならない。

いつも周りと自分の観察を続けながら、あれこれ試してみたうえで、自分なりの物事の理解が深まる、改善されるというよりは、日々物事に対しての抵抗感が減り、感覚に慣れていくという感じがする。

 

 

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普通に話をするということは難しいもの。けれども、不思議と息子たちには話せてしまう。

長男は、特に話し上手でいつも取り繕うことなく、誰にでも接することのできる天才ではないだろうか、と時には思ってしまう。柔軟なのに、人情もあって、かつ、きちんと自分のなかの芯を持っている。本人なりに毎日の鬱憤や起伏はあるようだが、それをあえて恥じることなく話してくれるからこちら側も把握しやすい。

二人の息子には、生まれてきて赤ん坊の頃からでもよく話すことを心がけてきた。耳から入る情報を伝えていくことで、徐々に年を重ねていくたびに、口からもいつしか情報を伝えあうことができるようになったいま、二人の息子たちは母よりも口達者でおしゃべりになった。いま思えば、幼い頃は私もあんなにおしゃべりだったのに__という感情を思い出させてくれたのも、息子たち、夫のおかげじゃないかな。たわいもない話から親密感も深まっていく気がする。ある程度回数を重ねていくと、誰とでも会話が広がっていく気がすることもあれば、見知らぬちょっとした面識のある人たちともある程度は会話できるようになってみても、上辺状の内容の薄い会話を繰り広げるのは相変わらず違和感がある。

それなのに、息子をみていると、ここまで深く考えてなかったようにも思えてくる。

あと1ヶ月で7歳という長男。自分の時と比べるとこんな感覚だったかな?とよくわからないけれど、子供の頃でもきちんと意思を持っていたはずだということを思い出させてくれる。

 

心地のいい長男と過ごすからか、見慣れている人でもスムーズに話すことへの違和感は少なからず生じる。もちろん慣れ親しんで、会話をする量と質が違うからだろうけれど、会話ってこんなにも難しいものなんだっけ?と、ふと思わずにはいられなかったりする。

考えてみれば、会話で不自由しない人というのは、どこかなんでも話を聞いてくれるようで、白黒はっきり判断をせず、助言をすることなく、親身になって一生懸命乗り越えられるよう寄り添ってくれることが力になる。話す速度関係なく、会話の内容の受け応えが充実しているからか、時間が過ぎてほしいと感じる煩わしさがない。いつも自分の気持ちを理解してほしいと思わずにはいられないけれど、理解してもらいたい思うことは、あまりにも貧欲な気もするる。だから、ここは、気をつけたい。

 

人間同士、ある程度の境界線は必要であるし、距離感も上手に測らなければならない。下手に懐に入り込もうとすると、大怪我にもなる。話を親身になって聴いてくれる、受け応えてくれる、打ち明けてくれる、共感能力が高い、助け合える存在がいることは、珍しいことでもある。多ければいいということでもなく、煩わしさが増える気もするし、あまりにも自分の殻に閉じこもってしまって余計なことを考えるのも心身によくない。離れすぎずくっつきすぎず、それでも話ができる人。ほどよい距離感は大切に感じる。

 

少なからず会話できていると感じる存在とは、限りがある。相手を尊重し合い、いつでも心に寄り添ってくれるようなそんな幸せな気分になるそんな人。その機会とめぐり出会えることは、心底ありがたい気持ちになる。

 

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ガーデニングについて新しい情報を得た。

雑草や枯れた植物を刈って、空いている土の面や育っている植物のマルチングに使用する方法。重ねていけば、ふかふかの土壌になり、肥やし要らずだとか。同時に、雑草も生えてこなくなる。自然のものはうまく活用すれば、廃棄するものもなくなり、また時間が経てば、再利用できる。土に埋まっている石も直径3センチくらいでなければ、発育に支障ないのだとか。焚き火もして、残った炭も畑にまいて、土壌を活性化させる。

庭の植物たちもどんどん芽が膨らんで花も咲いてきて、今年は見たことのないほど多くの自然界の来客たちが勝手に自然の営みを働かせにきてくれている。毎日庭に出て観察することがすっかり日課の愉しみとなり、癒しの場になった。これから庭にでる機会が増えそう。

庭仕事は毎日が新鮮で、飽きがこない。

 

いくつかのハーブの種や苗を購入した。

今まで貯めてきたメルカリポイントを使って、生活面にうまく活用できるように、と。

春になって芽吹いてぐんぐん成長してきたミントは、根本部分を切って挿し水をして根っこが生えてきたら植え替えをしていく。

動きやすさと煩わしささえなければ、出不精で庭仕事する人間は、快適さと衣類に対する時間の削減を重視するようになるみたい。

自分にとっての有効な時間と幸福を感じるお金と時間の使い方。以前の自分から考えると、どうやらここが欠けていたみたい。