くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

読書をする理由

本が届いた。

といっても、夫が帰国早々風邪をこじらせ、寝ついている日々が続いている。だから、本はすぐには読めないでいる。子どもたちも一緒に過ごしているからには、まだまだ付き合うことも多く、本を合間で読もうとしてもなんだか気が逸れてしまう。昼間に読みたい衝動をグッと堪え、簡単にパラパラとめくり、優先して読みたい本だけをピックアップしておいた。夜にしか読めない機会を作ろうとするものの、まだ自分自身も体調も万全ではないため、念の為にすぐ寝るようにする。いや、これからは睡眠重視だ。これは身をもって痛感するから、とにかく8時間は寝なきゃならないな、と思う。…いよいよ、子どもたちの新学期も近づいている。

とにかく、時間の活用法を考えおなさないと。

特に読んで気になったいまの本の一節を心境と重ねて考えてみる。

 

鈴木祐著;「最高の体調」

睡眠時間を多く確保すること、自然に触れること、ひとりでもいいから親密な会話ができる身近な存在を作ることなどが、重要だと書いてあった。本に記してあることは、だいたい一通り読んでみても、うん、たしかに。この頃の生活を振り返ってみてみると、心の中でそっと静かに頷かずにはいられなかった。

 

橋本幸士著:「物理学者のすごい思考法」

いやあ、面白い。物理学者の日常の捉え方や発想法にハッと気付かされることが多くある。こんな人が身近にいたらいいのにな、と思ってしまった。身近にあることについて、改めてもっと不思議に思って生きていきたくなった。

文章についてのロマンが詰まっている文章には、もう、しばらく読み返すほど釘付けになってしまった。

 

ジュリア・ケラー著:「やめる力」

この本を読みながら、焼き芋が焼き終わるまで、焚き火の番をしていたところ、良い内観になった。

最近のことに嫌気がさしていたのに、この本の内容のおかげで、悩んでることさえちっぽけなことのように思える。

1日のなかで、省かなければならない時間が確実にある。それは、考える時間。どれも考えるためには必要なことだとしても、日々耐え続けるために、少しでも気を間際らしながら、自分にとって快く生きる方法をみつけていかなければやってられないな、と。

 

最近の研究によって、「とどまるか、進むか」と呼ぶ決断を脳が実行するのがいかに難しいかが明らかになったという。「脳が変化したり、切り替えたりして、新しい何かをするためには、それ以外の選択肢をすべて考慮しなければならない。他にどんなものがあるのか?すでにどれだけのものを得ていて、この先どれだけのものが得られるのか?とどまるか、進むべきかを見極める判断材料を得るには、脳の様々な領域が密接に連携しなければならない」-ジュリア・ケラー「やめる力」より

 

 

 

カート・ヴォネガット&スザンヌ・マッコネール著「読者に哀れみを」

最初本の分厚さをみて、読み終えることができるかな?と懸念したけれど、あっさり読めてしまいそう。なんなら面白すぎて、次から次へ読み進めたくてたまらないほど。この本は、まだまだ読み終わることができなさそう。単純に読めばいいのではなくて、あれこれ考えてみることがあまりにも多くて。

こうやって日記を書いてみると、自己満足にはすぎない。けれど、なるべく何度読み返してみても、ふふん、とおもしろく、あのときはー、と考えられるように書いていきたい。

文章から自分の新しい判断材料になるような視点が見つかり、日々を快く生きられるようになったらいいな、と。

 

 

 



 

 

 

 

自分でもよくわからないとき

実は、自分がどうしたいのかよくわからなくなっている。

朝起きると、いったい誰のために生きてるのか、とふと思うときがある。自分のためだけを考えても孤独感は押し寄せるし、誰かのためを考え過ぎていく人生もしんどくなる。そういうバランスも考えて、ただある事を面白おかしくたのしんで感謝しながら生きる。自分の意図を認識して、用心深くみつめながら。

多分、人生はこういうものなんだろうな、それでいいんじゃないかな、とも思ってきている。

 

 

なんだかよく書けないときがある。そんなときこそ、備忘録として書かなければならない。まとめて書けないときは日常茶飯事だからこそ、、メモして残すしておく。Xなどにもつぶやいて。見直して書いてみるだけで、不思議と気持ちが整理されていく…。

どの作業も大事だけれど、こうやって書いている心情の変化の過程が、最も大切にしていくべきことなのかもしれない。

そういえば、韓国の友人に自分の近況の日常を報告するとき、改めて自分の変化や心境に気づけることがある。こうやって書くことが自分にとって、どれだけ生活の一部として欠かせないことなのかも。

 

こうやって書いてくと、過去に体験して痛感した分、またひとつ、ひとつ、よく生きようと努力してみることが増えてく感じはする。
同じような思いはしたくないからこそ避けることもあるぶん、大切にするべきことも、小さな違和感も大切に考えて。よい機会だと思えることには積極的に。いつもよくわからなくて、それでもどう生きるかは常に考えながら、取捨選択して生きていきたいもの。

 

そういえば、いつも読んでいる鈴木裕さんのブログで紹介されていた本の要約でもこう書いてあった。

“自分がその行動を目標にした理由」を明確にし、ゴールに向かうすべての行動を5分以内の小さなものに分割する。次に、その新しい目標を、すでに毎日やっていることに継ぎ足す。忙しい生活に新しいことを加えるのではなく、既存のルーチンを再構築するのが理想的である。”

 

 

 

…うん。なんだか自分の中で点と点が繋がったというか実生活でもなんだか思いたあるふしがある。

 

 

そんなこんなでまわりくどく書いてみたものの、結局のところ、あれこれ身の回りにあることをどんな小さなことでも気になれば、じっくり考えながら、自分の中で一旦ぐっと腹を決めて生きてみる。その都度考えが良い矛先を向いているように感じれば、そのまま生きてみる。

 

そんなふうに、あらゆるものの見方の角度を日々意識して、依存的なモノ、とらわれやすい考え方を書き記すことで、新しい風も通り、古い考えも手放してこれたのかもしれない。(20代〜30代の悩みは変わるというように!?)

 

気になることは自分でどこからか探してみたり実行してみると、あたらしい新鮮な考えの窓が開いて、風通しがよくなって、気持ちいい感覚になる。はたまた偶然身近などこからか、なにか新しいできごとが入り込んくることもあって、いつだってものごとから考えさせられる。

 

こうしたことを考えていると、ふと頭の中によぎった本、リルケの「芸術と人生」が読みたくなった。不思議と一ページ目をめくると、あれ、リルケのいうことが、もしかすると、自分の中にも少し当てはまるのでは?なんて、思ってしまった。

 

芸術家の自然への関心のもちかたには、なにか無我のようなものがある。大きく見張った目を通じて、永遠に待っている魂のなかへ分けいっていく、こうした生活をだんだん私は理解しはじめている。この外界へ向けられた感覚の日々の注意と党と準備。との千回も凝視し、いつも自分を離れてかなたを見つめること。この変化する風景を、自分を連れないで、目だけで追うこと。このだれについてということは勘定にいれないで、ただ見る目であるということこうした生活の純潔さ、こうしたいつも快活であること、というのはいつも何かがそこに現われているからであり、それが自分という個人と関係をもっているからではなくて、単に動きであり、変化であるからなのだ。ことでは目がなんと大きくなっていることだろう。

(『日記」、一九〇〇年九月十一日)-ライナーマリアリルケ/芸術と人生より

 

 

だから、こう一度気に入ってしまった本は、いつかまた読み返して人生に役立てるであろうと思うからこそ、長く保管したくなる。

 

✳︎

そういえば、今月に入ってからのこと、珈琲を毎日のように飲まなくなった。風邪をこじらせたというのもあって。そんな最中は、昨日何を食べたか?よりも、昨日なにをしたか?何を考えたか?のほうが、はるかに心に影響することを実感した気がした。

それでも、珈琲は自分にとって良い刺激や集中力のスイッチを入れてくれる気がする。だから、あえてやめる気はない。これからは、以前のような毎日ダラダラとがぶ飲みをせず、飲む時間を決め、ほどほどに付き合ってたのしく飲んでいこうと思う。実際のところ、あまり胃にもよろしくないから。

 

✳︎

もう二日後に頼んでいた本が届く。読みたまらないのだけれど、こうやって悶々としながら待って日常で考える時間も、改めて読む時間を確保するときに痛感することも多くある気もする。

それでも、読むために時間は使いたいから、貯まったポイントやクーポンで購入できるのならば、自分の中で優先して本を買うようになった。そんないまの自分の中の小さな条件を守りながらたのしく過ごす、日々。

 

 

✳︎

庭の植物たちも賑やかにぐんぐんと活気付いてきている。

日当たりが心地よいときにみる植物たちの生命も美しいけれど、雨が降り注いで生き生きしてる植物たちもこれまた違って美しい。

 

焚火をして暖を囲って癒されるのは人間だけかもしれないけれど、まだ肌寒いときにはこれまた、格別だなあ。

今年もボリジが綺麗に咲いた。なんとも澄んだ淡いブルー色。

 

 

 

 

 

[blog:g:116962483187545508

64:banner]

トライアンドエラーの日々

子どもたちの春休みが始まった。

…というなかで早々に大風邪を引いてしまった。

寒さから暖かさへ移ろう感覚に、カラダもまだ調節できていないかな?一週間前に引いた風邪が悪化してしまった。

薬に頼ってなんとか家事や育児をこなすのだけど、子どもたちがいるため横になっていられない、と薬を飲んでごまかす日常にも慣れてしまって、少し楽にすれば体を動かし、その後またガクンと体調が悪化し寝込む。なんのこれしき、と這いつくばってでも家事をする。これはメンタルが強くなったというのかはよくわからないけれど、果たして良いことなんだろうか…?

確実にいえることは、健康な状態のありがたみを痛感すること。子どもたちにも頼ってみれば、思った以上に家事を助けてくれる。お風呂掃除や洗濯を畳んでくれる姿には心底助けられる思いになった。助けられてる、確実に。

 

そういえば、義母が「熱が出た時は、寝てなさい。癌細胞も死滅するから!」と言っていたので、この際一度身体のリセットで健康になるためにグッと我慢して寝込むのを3日間ほど繰り返したら、ようやく回復傾向に。

 

 

✳︎

まだ寒さも長引く中、確実に春が進んでいるのを感じられる。いろいろな生命が芽吹いてくる頃、ちょっとした勇気が湧いてくる。

F・スコット・フィッツジェラルドの「春は、いつでも新しい夢をもたらしてくれる」という言葉があるように、新しい変化に対して前向きでいたいもの。

 

この期間は、なんとも有意義なことを考えている気がする。長男の小学校入学やら春休みやらの間に、

子どもたちのためになにをしようか?

自分が何ができるか?

ということを中心に考えている日々だからだろうか。

誰かのためのことを純粋に最優先して考えるということは、出産から子育てを経験し得た親特有の感情でもあるんじゃないかと思う。

自分のことを考えている余裕はないものの、なんだか子どもたちのことを考えているだけでも幸せな気持ちになる母親目線でのこの感情にもすっかり慣れてきている。

 

子どもたちにとっては、もうこれはおもしろくないんだろうなあ、と時間が過ぎ去ってくことも感じられたり、また新しい発見にも遭遇することができる。

かといって、子どもたちのためを思ってやることも、子どもたちが好きだから、と言って、必ずしもいいことばかりではないはず。親子でもひとりひとり違う人間なのだから、楽しいことも違えば、興味が湧く対象も違う。合う合わない感覚も人それぞれ。それでも相手の思うことを理解しようとすれば、人生で共通する根本的な面白みがわかってきて、一緒になって考えて、体験することの大切さを思い知る。

子どもたちがいつ、どんなとき、そのような表情、姿をみせるのか、そんな変化がいつも新鮮でならない。子供の成長とともに、随分と時が流れている気もする。自分の考え方もまた変わっていくのも感じられて…。

 

そんな日々の移り変わりの中で、葛藤することは当たり前のことなんだと思う。いつも同じことで気になるのであれば、いつも同じようにぐるぐる思い悩んで考えるのは自分の中では神経がもたなくなりそうになってしまう。誰も自分もいつも同じようではないものだし、変わっていくものであるし、何が良いか悪いかもわからないもの。だからそのことについてずっと同じような議題を自分の中で作り出し、問うことはやめようと思っている。

ああしようか、こうしようか、と考えて迷って誰かのために行動を選択する最中、自分の感覚でたしかに合点のいく結論にしていくこと。そのために努力してみること。

 

だいたいのことは朝起きたときに、忘れてしまいたくなっていることについては、考えないほうがいいことなんだと、自分の中ではよくわかる。寝起きはスッキリしているはずなのに、そんなときでも重苦しさがまとまりついてくるとき…どうでもいいことを考え込む必要はない。きっと、そんなに考え込まなくてもいいようなことで悩んでいることが多い。頭の中はいつもフラットでいたいもので、多くの葛藤に悩まされていることも、きっと違う場所なら悩む必要もないことかもしれない。何かと常に比較しながら生きなきゃならないけれど、比較した上で、自分には何を大切に残しておきたいか、を考え、選択する必要があると思う。

もし、その問題だと思えることが目の前にあるのならば、それなりに考えなくてもいい他のことへ目を向ける対処が必要で、きっとそうすれば乗り越えられてくる。

目の前にある幸せなこと、幸せだと思えるようなことについて。考えたいことへ沿って考えて。

 

 

自分の頭でものを考えようとすると、いろんないやな目にもあいます。憎まれたりすることもあります。でもそうしないことには、どこにも行けないんですよね。僕は切実にそう思います。<村上春樹>

 

世界には、君以外には

誰も歩むことのできない唯一の道がある。

その道はどこに行き着くのか、

<ニーチェ>

 

人生は自転車に乗るようだ。 バランスをとるためには動かなければならない。 物理学者<アルバートアインシュタイン>

 

 

追伸

Netflixに再加入した。

やっぱり我が家には物語から考えることが必須だと思う。楽しく集中する時間。

これも、親子で似たのかな…?

子どもたちも春休みの期間中だけ、日記を書かせてみようと実施中。なかなかによさそう。

 

 

 

春の風に快く流れてくように

またもや、しばらくぶりになってしまった。

記録はしたいものの、長男の卒入学やら春休みやらで、毎日追いつくので精一杯だったり、体調不良が長引いたり…。本格的な春が到来する間際、気温差に揺れ動かされながら、まだ春が来ていないんじゃ!?と思うほど心身ともに凍りつきそうなほど寒い。明日からまた気温が上がってくるみたいで、いよいよ春到来か?

と今かと待ちわびている。首元から冷えてカラダ全体が不調になる現象から早く逃れたい…。

 

それでも、毎日Xでほぼ一言はつぶやくようにはしていた。正確に言えば、呟かなければやってられない、といった感じ。毎日の忙しなさや新しい生活へのプレッシャー…吐き出したいものはあるけれど、なかなかうまく飲み込めず、消化もできない感じ。このもどかしさをどう解消したらいいんだろうか?と時間をなるべく割いて自分自身の管理をする日々。とくに、この時期は多くの時間を割いた。“ちょっと消化不良になりそうなものを防ぐ”といった点では、嘆きをメモする→書くと言った工程の流れは、自分にとって心底効果的に感じる。

 

といっても、この思い悩んでいる時期も、どうせ過ぎ去っていくのはわかっている。一時的な付き合いだと思うけれど、いまの向き合い方もどうにかせんと!と思いながら、マイペースも崩さないように心穏やかに過ごすように努めている。勝手に自分らしさを欠けるほど暴走しないように。

 

だいたいの悩みの種を発生させるものは、生活面のこと、人間関係や健康やメンタル管理。

この頃は、どう生きていくかよりも、どう生きていきたいか、を問いながら考えていきたいな、と思う。

 

仲間を選べ

あなたが親交を望むときは、その人の学習態度を見て選択するといい。あなたにいろいろなことを考えさせる関係は実りが多い。その他の親交はどれも有害となろう。

(レオナルドダヴィンチだったかな?)

 

 

ことばにできないことというのは、往々にして一番大事なことです。頭ではわかっているんだけど、いざことばにしようとすると、うまく出てこない。でも、そういうことは無理にことばにしないで、ことばにならないままのものをじっと胸に抱えている方がいいかもしれない。鳥が卵を抱いて温めるみたいに。

-村上春樹-

 

いま、とくに大切にしたいこの言葉を胸に。

 



 

春の訪れとともに、意欲も高めて。

最近書く意欲はありつつも、行動までには至らなかった。

少し多忙なのもあって、疲れやすく、うまくストレスを発散できなかったためかいつも以上に多く睡眠を確保したりしていた。

疲れやすいとき、なんらかの意識や行動のせいで多く消費している気がしてならない。

 

それでも天気が良く、部屋にまで日が差す日には、格別気分が和らいだ。気圧の変化で頭痛や体調不良も起こすこともあるし、そういう症状に悩まされているという話もよく聞く。とにかく、春の心地よい暖かさが照る日差しがとてもストレスを軽くしてくれるみたい。そういう日には、多くの懸念も和らいだし、行動力も増して、活動的になれると、そういうのも相まって、気分が良くなったりした。気温や天気の影響も多くある気がするのは事実。これは、歳を重ねるほど大きくなるのは気のせいかな…??

 

さて、最近急に関心が多くなったことがある。

それは、物理について。

量子力学やら最近の化学について歴史をたどっていくと、面白い認識、発見ができて、改めて数式で表せるもので成り立っていたり、目に見えないもの、まだ未知のことについて考えてみることは、ものの見方が変わってくることに気づく。広い視点で考えてみることが、いかに新しい発見や出来事につながるのかを実感させられたりもする。意識と感情はよく凝らしてみないと。凝り固まった考え方や受け取りかた、意識について。いつも改善の繰り返しだなあ、と改めて思う…。

 

書きたい意欲はある。でも、それをうまく自分なりに理解できないことはなんなのか?それをずっと考えてばかりでうまくまとめられない。そんなときこそ、そのまま考えていることを書き出してみるのは、ほんとうにいいことだと思う。

意識していても、行動はなかなかできず、解決しようと試みる一歩が大事なんだと思う。

だから、尚更こうして書いていこうかなと。自分の身辺整理のために。

 

良いことをほぼ記して、ほんとうに困っていること、複雑だと感じていることも、ネガティブなことにしないで、個人なりの時間の使い方が良好に感じられるような備忘録にしたい。

自分ってなんだろうか?と考えてみると、ほんとうによくわからない。でも、こういう特徴があるんじゃないか?ということを薄々感じたりもする。でも、それもまた意外な展開で崩されてくこともあったりして、ますます、自分の意思次第で、左右することに気がつく日々。

ちょうどそんなことを考えている時期にピンときたXでの文章↓

 

 

 

:追伸

韓国の友人がこのブログを読んでくれることになった。

誰かが呼んでくれていることが目に見えなくても書き続けることもいいけれど、読んでくれて、応援してくれる仲間がいることも、一つの幸福になる。こういう縁には感謝しなければならない。余計に身が入りそう。

 

 

作物が実ったり、芽吹いたりし始めている。再開まであともう少し…待ち遠しい。



 

 

 

 

 

 

 

 

心に問いかける日記

時間が経つにつれて、あのときがいかにいい思い出だったかを思い知るときがある。

考えてみれば、いつも、これはすごいな、いいな、あんまりだなあ、と感じながら生きてきた。小さい頃は、それについてあまり深く考えられなかったけれど、歳を重ねるにつれて、いろんな思いや経験が混ざり、混乱したり、迷いが生じてきたりする。

 

考えてみれば、いつもすぐに答えは出ないものだし、こうしておいた方が良さそうと頭の中ではわかっているつもりだけれど、いざ実際にしてみようと思えば、不安や躊躇したりもする。そんな想いを噛み締めながらも、一歩踏み出してみる気持ちで。できるだけ後悔のないようにはしたい。

 

自分にとって効率の良い方法は、じっくり時間をかけようが、たまたまうまくいったと思うこと、些細なことなど、あくまでも自分の方法で、ペースで、なにか都合のいい発見をし続けることなのかもしれない。

え、これのどこがいい方法なの?と言われるかもしれない。けれど、自分にとってはなにか大切で、得られることがきっと、ある。それも、きっと個性。

 

✳︎

ちょっとした違いで変化が生じていく。

いい人と付き合うといい結果が生まれるとよく聞く。最近、それが、ああ、こういうことなのかなあ。と感じられてくる気もする。

なにか後味悪かったり、変に疲れてしまったり、気にしてしまうようなことへは突っ込み過ぎない。

相手に期待したりせず、自分を理解するつもりで話す。

とくに目が輝いている人の話は、心まで込み上げるものがある。何か大切なことを受け入れられる感じがするけれど、たまたま機嫌が悪く、逆に相手が自分を警戒して話しかけてこないか、気を遣ってくれている場合だってあるかもしれない。

 

けれども、そんな時には少なからず優しさや親切心という素ぶりは、なんとなく感じられるもの。

いろんな人の話を聞いてみることは、自分にとって役に立つかどうかはさて置き、参考にはなる。最近は、そんなことを意識してみている。

 

✳︎

最近ちょっと宇宙論を聞いて混乱している。

ただシンプルに考えればいいものでもなくて、もう一ひねり、考え方が必要なように。

良い方向へ。

あえて一つのことへ考えすぎるのもよくない。

そのとき、そのときで。

なんかひっかかるのであれば、もう一度やり直してみる。

改善は、きっと少なからずされていくはず。

 

✳︎

もう一度ちゃんと勉強してくればよかったなあと思う瞬間が、ときどきある。好奇心のためでなく、学ぶという面白さ、そこから広がる世界があるような気がして。ということで、息子の勉強に一緒に真面目に付き合おうかと思っている。

 

なんだか改めて知るという機会のために時間をかけて、使いたいなあと思う。そのためになにができるんだろう??

わからないけど、思いついたらできる限りしてみる。日常でのほんの小さなことだとしても。

 

歳を重ねてくうちに、もうあの時みたいにはできないよね、みたいな心境になってくる。過去、未来へ前も後ろも分からんくなってしまうようで、新しい扉が空きそうな気もする30代。

気になってること、違和感を感じることは受け入れつつ、そのままあらがわず、寝かしておいてもよしだと思う。きっと、そのままゆるやかに変化し、過ぎていく…。

 

受け入れ難いことへ適応していく慣れ、その最中がいつも大変で、その時期についてはいつも慣れはしないけれど、ものの見方は本当にいろんな考え方ができる機会だと思う。きっと、そのできごとのおかげで、どう意味をもたせるのかも自由なんだろうし、自分次第になってくる。

 

結局、なにを抱いているかというと、もっと若い頃なにかに必死になりたかったんだと思う。いまそう思えるだけかもしれないけれど、いまからするには、体力的にむずかしいこともあるだろうけれど…。

いまだからこそ、今からでもできることをはあるんじゃないか。そう思いながら…。

 

 

 

 

考えてみれば、2

とりあえず、最近思っていることについて、書いていこうと思う。

何を書いていいのかわからなくなっているために。

 

さて、最近は、寝起きが重たい。

目覚めはまあ、良くてもぐだぐだとあたたかくて、心地のいい布団の中におさまっていたくて、軽やかに起きることは、できない。

はて、なにか活気が足りないのかも。

 

 

そう思えば、何かと考えがナイーブになりがちかもしれない。

子どもの新生活のことやら、その他もろもろのお付き合いの仕方とか。

あれもしなきゃ、これもしとかなきゃな。みたいな日々の中で、読みたい本もある。観たさに浸りたい気分でもある。けれども、この時間は、なにか振り返ることができるから、大切。
まったく、こころが忙しない。

 

こうあるべきなのかな?と、どうしても周りと比べるようにもなる。

でも、いや、自分の生活観とだれかの生活観はちがうから。と、考え直す。

それで、いつも右往左往しながらも、きっと自分のペースに、と落ち着いていくようにするのがいいだろうし、そうなるはず。と思って、意識する。

 

 

 

人間関係は、苦手ではあっても、割と人と話すことは、嫌いではない。

幼い頃、話を聞く側ばかりだと思ってそれが少し不満だった。何を話していいのかわからなくって、ひたすら誰かの話をうんうんと聞いた。けれど、いまは、聞くことのほうがはるかに有意義な時間に感じるようになる。聞けること、聞いてみることは、新しい風が通るような気分にもなる。

 

日常は、いたって以前の健やかでいい状態とも、変わりはない。

ただ、自分の心の持ちかた次第で、今だけの問題は、どうにでもなるはず。

そんな感じでいいんじゃないかな。と思いながら。

 

子どもたちは、毎日家の中であれこれ好きな遊びを数パターンか持っていて、それに付き合うのが役目でもあるけれど、毎日ちょっとずつ工夫して、目がキラキラしていて楽しみを探す。同じように見えても、受け取るものがちがう。そういう面白さに気づける。子どもたちのいる暮らしは、見直せる。余計に。

そういうことを見習って、と思いながら、いまこうして書いている。

 

子どもたちの不在の間にやっておきたいことを済ませる。コーヒーひと口飲み始めてから、なんやかんややる気がでて進んでしまう。だからいつも結局冷めてしまうけれど、一杯飲むだけで、すごい物事がはかどる。コスパがよすぎる。

 

そうだ、自分だけの楽しい日常の展開を。

そう意識しながら。

 

追伸:『晩夏』読み始めからもうワクワクして、作者の表現力に、あ、好きな感じだ。と文章にうっとりしてしまっているところ。

物静かに、わりと穏やかにものごとを淡々と述べられている中に、いろんな感情が読んでいくにつれて、じっくりみえてくる人生の本質が感じられるそんな本。これは、残しておきたい貴重な本。