くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

人生を愉しむために

 

 

長男はいつも天真爛漫だと思う。自分の好奇心に純情で、何くわない顔で楽しそうに物事取り組む。もちろんすべてがそうではなく、本人なりの反発心や取り組み方への抵抗感も日に日に感じられてくる成長も感じる。また、誰かと同じようでは気に食わなかったり、自分なりの探究心をもっているように思える。それがときには親かすれば、心配だったり一歩間違えれば大ごとになりかねないことだったりする懸念は多い。

それでも、それをあえて口を挟みすぎたりはしないようにしている。本人の中できちんも事柄に対して付き合えるようことが落ち着いたあと、一人の意見として感想程度に述べてみる。きっと本人なりの線引きがあったり、きちんとわきまえているかのようにも思えるし、まだその自己探求の真っ最中だから。人間生きていれば常に人と人は違うものだから息子に口を挟んできたり、物申してくる人たちもいるはず。親として静かに見守りながら、なるべく尊重して自らで体験して、自覚していくという前提のもと付き合っているけれど、きっと、私もその中の一人だ。何かいえば、息子にとって、有害になりうるのかもしれないと警戒はしていきたい。

 

そんなこんなの考えがとくに頭の中に渦巻いてくる最中、最近夫のおかあさんが言ってくれた言葉に安堵したというか、肩の荷が降りた気がしたことがある。

「親の顔色を伺うことなくすくすく育ってきている子だから大丈夫。何が失敗でもないし、たとえそれが失敗に思えてもそれもまた成長する機会。私にとっても子育てが一番の人生勉強になったわ。何を言ってきたとしても子によってまったく受け取り方も生き方も違った。親は子供にとって反面教師なの。親が子どもにできたことなんてほとんどないようなものなのよ。」

 

また、今後も息子に余計な心配事を口走って言いすぎないようにしよう、と改めて思った。

いま現在も息子は人生の正常運転中でもあり、長所でもあり、生き方への進むべき方向を見定めている。

親としては、そっと寄り添い、話を聞いてみて頷いたり、背中を押す方へそっと手を差し伸べてみるしかない。

 

遊びも危険との隣り合わせでもあると思う。

とあるゲームの創立者は、ゲームの世界の冒険や、洞窟の中に入っていく怖さなど、そういうのは、僕らが子どもの頃に、すぐ近くの、近所の中の世界にあった」といっていたそう。つまり、大ヒットしたゲームの世界の原点には、「自分が子どもの頃に遊んだり、冒険をしたりした、野山などの近所の遊び場」があったという。

 

大人になっても忘れずに、その原体験を重ねていくほど、何か自分にとっての得られる広い世界観になるのではないか。わからないことを試しながら理解を深めていく個人の戦略的なものを掴めていけば、自然と自分が知らなかった世界へと繋がっていくような、「外部に繋がる回路」も開かれやすいのかもしれない。

 

 

 

とある研究結果によると、自己概念を明確にすれば、不健康な食事、肥満、アルコール濫用、スマホ依存、ムダな買い物などの問題が減るんじゃないかって言われているそう。

 

自分の望んでいるような人生観がある程度自己認識できていれば、不要なこと、不必要なことの選別ができていく気がする。ここは、こうするべきじゃないな、とか、こうした方が自分にとっては清々しくて快適だと感じるようなことが。生きていく時間が多くなるほど原点に戻るというか、再確認することも多くある。また新しい自分も知っていく。常に変化にともなって学んでいくことは、多い。

 

 

庭仕事をしていると、カエルやハチや蝶、その他虫たちが続々と現る。お互いにせっせと暮らし共存している感覚。とくに、忙しなくて疲れやすいときほど、自然にいると心地いい。