くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

毎日新しい

 

今日は、2ヶ月ぶりに次男の通院へ。短期間の間で成長を感じた瞬間がいくつかあった。脳の意識?細胞レベルで?なんだか変わっている…メディアもみず、ただ話をしながらいつもより1時間長く過ごしたのに、以前になく落ち着いていた。院内を歩くときも、駆け足になるのを抑えて歩くようにもしていたし、場をわきまえたマナーみたいなものへの意識が感じられた。

(ひょっとすると、私と同じくらいの態度だったかもしれない)

 

脳に未経験のことや新しいことを行わせようと何度も要求すると1つまり現在していることをやめて別のことをしようとすると1脳は次第にそれをうまくできるようになる。脳は活性化されることを好む。やめることは、脳のエアロビクスのようなものなもの、だというのを思い出した。

 

いつも付き添う立場であるけれど、いつも全てを先回りして助言をしたり、隣に立って、本人の意思というものを生み出せない気がする。自力で一歩踏み出せるために。気持ち一歩引いて。後ろでそっと見守りながら。考える時間を。多く発見できる時間を。

成長するたびに手が離れていく名残惜しさもあるけれど、成長する機会が一日でも多くあることが、子に対する親の幸せと願いかもしれない。

多くは親に似てほしくない面もあるから。反面教師でいこう。

 

毎日の子供達の姿をみていると、ほんとうに天真爛漫だ。

何かに向き合う時の表情、姿勢がキラキラしている。時と場合も考えて足並み揃えていかなければならないこともあるだろうけれど、大人になってできない後悔があるのならば、いっそのこと納得いくまで痛いほど経験して、トライアンドエラーを重ねて、その数だけ踏ん張っていっていけるようになってほしい。“周りがこうだから、こうするのが当たり前なんだ。ということは、事情によっては必ずではないはずだから。客観的に物事をみながら、何か自分なりの模範を見つけて、たのしく幸せに暮らしていけますように。

 

プラスの言葉を日頃使っている人たち、配慮や思慮深い人たちと話してみると、自然と気分がいい。人によって感銘を受ける場所もどことなく違っている。

発言に対して向ける言葉返しというのは、いつも悩まされるし、意識から放たれる言葉、受け取る言葉は、とても慎重になければならないときもある。受け取ったとしても変換することは、いつも重要だということ。

 

 

 

昨年の庭。いま思えば、なつかしい。

今年は芽吹くものが多くなった。

カモミールがつぼみをどんどんふくらませて、はじめて咲くところ。