くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

迷いながらも進む日々

あらかじめはっきりと線を引いておいて、それを越えたらその先は一歩も進まないと拒むことなどできない。
時には、失敗を成功への足がかりにしなければならないこともある。

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希望と絶望のあいだで、
絶妙なバランスを保たなければならない。(中略)
結局、すべてはバランスの問題なのだ。
ーロヒントン・ミストリー著「A Fine Balance』(未訳)

 

 

白黒はっきりさせると、逆に進む方向に迷ってしまうこともある。

はっきりしないことは、片隅に置いておいて、大事なことほど大事にしていけばいい。

 

 

 

長男が入学式を終え、いよいよ学校生活が始まった。

以前よりも朝一時間もはやく長男が登校するため、早起きをして送り出す。そのあとに次男を通常通り見送る。最近は天気もよく穏やかな朝のなか、次男とたわいもない話や目に映る景色を愉しみながら歩いている。

 

 

考えてみれば、あれこれ目先の心配は多いけれど、まだ起きていないことはある程度想定はしておきながらも、そっと見守りながら様子をみていく。いま、起きているひとつ、ひとつのできごと、行動を用心深く見つめながら、今後の人生に何か役立つのかわからない話だけれど、なんでも子どもたちには話してみておくことにする。(余計なお世話かもしれんが)

 

不安はいくらでも作ることもできてしまう。下手にその心配の方ばかりに目を向けるのはやめておこう、と思う。誰と比較しているだろうか?と思わずにはいられないし、比較はやめられない。それでも、見よう見まねから自分の進む方向性もなんとなく気づいていけるもの。誰かと自分は似ているようで、明らかに違う部分もある。マッサージをするように思いをほぐし、ほぐして、どこがどうなってるのか、掴めるような気持ちを探して。

 

結局、いつも誰かに、なにかに動かされている。家族でもあり、ヒトとヒトだけじゃなく、身近な生活の中にあるモノ、起きるできごとにも。良くも悪くも、慣れることにいつまでも敏感で、歩く感覚をいつも新鮮な感覚で、見晴らしをよくして物事を深く考えて。少しの変化は、変化を呼ぶ。

 

まだ忙しない中、内心新しい環境に対して、何から考えてみようか?と考えて、心の中があっちやこっちに行ったりで気が逸れては、頭の中がフル稼働し、エネルギー消耗しやすい。日常で自分の心配よりも相手を思っての心配も多くある。そんな見慣れない時期には、バタリと寝転がってしまったら、なかなかすぐには起き上がることができないで、熟睡もできず、寝起きも快調ではない。そんなとき、睡眠と休養と活動のバランスをうまくやりくりしていかなければならない、と思い直す。無理は禁物。無理な場合は、新しい可能な方法でやりくりしていけば、一日はなんとか無事に終わってくれる。

 

きっと本人なりにうまくやってくれるはず。この子の性格なりにうまくやろうとするだろう。なんて、遠目で陰ながら見守っていけたらな、といつも子どもたちにはこんなことを思わずにはいられない。そして、自分自身にも問いかけている。

“最後に、有効な場合にはデータを使うこと、家族に合った決定をすること、できることをすること、そして(ときには)考えないようにすることを願って、乾杯しよう!”ーやめる力ーより

ちょうど本から思うこととまったく同じような文が綴られていた。

 

 

いつもほどほどのプレッシャーを感じながら、日々のハリを感じ、自分の人生を踏み締めるように一旦立ち止まって考えてみる。あらゆる方向から考えて、場合を想定したうえで、物事という自分の課題に対して、できる最善の方法を考えてみることは、たとえ無意味だろうと、過程の中で、少なくとも意味は持ってくるはず。

 

 

誰にでも未知のことには表情がぎこちなかったりする。いつだって目には見えない不確かなものを含んだ未知のことだらけでソワソワする。わからないことをわからないなりに少しでも多様に解釈できるように小さい脳みそで、どうしたらいいんだろうか?と考えてみる。いつだって、誰も不安だ。消えるわけではない。誰だって無知からスタートするから継続して努力するから。

 

歩く、家事をする、合間にコーヒーをただ座って味わって飲む、読書に集中する…そのつ、一つの感覚を意識してみれば、自分の人生を大事にしていことを踏み締めながら、気づき、考え直していける気がする。一種の瞑想法にもなる。

そんなこんなで、嵐のような時間の中でも春のように穏やかな時間を感じ、また新たな時間が過ぎていくのを感じている。

 

 

読書もひとつの気分転換に欠かせない。

最近はずっと買ったばかりの本を暇さえあれば読んで、読んで、考えている。

文章は、なんでここまで夢中になれるのか。同じ文章を何度も何度も読んでみてもまた新鮮で、別の考えが浮かんで、解釈に終わりがないように思える。これもまた、人生かな。いろんなものをみて、ずっと残り続けるものは自分の人生の一部として血肉になるのかも。

 

「少年の日の思い出」も貯めたポイントを図書カードに変えて購入した。

ヘルマンヘッセの並べられた言葉の文章が、心に入り込んでくる。

 

 

「自分の手ではどうにもならないこと」を手放す

「私は、自分の身に起こることは必ずしもコントロールできないと学んだの。自分の手でなんとかなるのは、時間の使い方だけ。学べているか、成長できているかと自問しながらね」

 

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やめることは、イエスかノーか、生きるか死ぬか、今やるか一生やらないか、というような極端な形をとる必要はない。必ずしも、すべてを吹き飛ばしたり、すべてを片づけたり、すべてをなかったことにしなくてもいい。わずかだが重要な軌道修正をすることも、やめることになるのだし/こうした小さな変化は、すべてを一度にやめるのと同じくらい重要なものになり得る。これは何もないところからやり直すのではなく、すでに知っていることを活かしながら前に進む方法だ。

 

ジュリア・ケラー「やめる力」より 二節

 

 

 

 

 

 

 

 

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