人は、余裕がないと、カリカリしやすいみたい。
朝から寝坊し、子供達の送り迎えでも忘れ物をしてしまい、あることごとに嫌気がさす。
朝から、夫に朝ごはんが簡単だと言われた。
そのとき、わたしは、簡単?とすぐに思ってしまった。
おにぎりを握って、フルーツを切って、発酵させておいたヨーグルトを冷蔵庫から取り出し、器に盛り付ける。子供たちがおかわり!といえば、また用意する。急いで作ったには素晴らしいじゃない!
これのどこが簡単なの?思わずそう心の中でモヤモヤが募り出した。
言わなくてもいいことかもしれない。夫もじつはそのようなニュアンスでしか言えなかったのかもしれない。
けれど、また同じようなことを言われたら、今度は言わなくちゃね。
心の中でそう誓った。
ある日のこと。
子どもたちは、いつみても自然にみえる。
大人たちの会話は、いつもぎこちなくみえる。
いつからこんなふうに?
いつからかおのおのに分岐していって、交わることに難解。
自分の人生もきっと変わっている。誰かの人生も変わっているだろうなあ。
それでも、いつも混じわろうとする。
…なぜだろう?
考えてみるだけじゃなく、考えてみたことを書きながら整理してみることで、気づくことがある。
考えてみようとすると、まず先に個人だけの視点がでてくる。
自分ならどうする?
それだけで考えてみると、けっこう煮詰まりやすい。
頭の中で考えるだけでも整理はできるものだけれど、書くことでなぜかスッキリする。これは、ほんとうに不思議。書いた達成感?からくるのか、書いている行為は、ほんとうに気分が良くなる。
手書きではなく、タイピングしながら記録していくのが好き。タイピングのカチカチっとした音が今ではすっかり習慣化してきて、心地よくなってしまっている。
それはさておき、
今までの自分だけの経験値と見解だけで導き出そうとすると、これはどうなの?とつい思い悩んでしまう。そんなとき、ちょっと待て。あのキャラクターならどうするだろうか?あの人ならどうするだろうか?
そう考えてみるようにしている。おかげで、こうでなくちゃいけないよね、という固定された結論に至らず、多様な視点を持っていられるような気が。
我が子たちへもそう。誰かと会話している時もそう。つい、自己語りしてしまいそうになるときには、思い出す。あくまで、個人の考えだとして押し付けないように。主張は相手の意見によっていつでも変わるもの。相手がどう捉えたか、そこで聞いた側もどう捉え直すか…。うまく噛み合わないことも会話や素振り、ちょっとした違いで変わるもの。いつも忘れずにいたいな、と。こんなことを。
これも、何かを探究したくて調べている人の情報から参考にもしている。読書やブログには、言葉を読むという力が加わり、想像力や共感力、読解力が育まれる気がする。
動画や話し手からは、その時の緊張感や躍動感がピピっと信号で受け取るように、感覚や神経へと伝わる気がする。結局、どちらもどこか違っておもしろいということ。
さて、あと5日で本が届く。4ヶ月ぶりに読む真新しい本に心浮かされている。
文章の推敲の仕方の動画をみた。
わあ、なるほど。こういうふうな視点があってこそ、その言葉が生まれるんだ。その人はこう言っていた。
書き方によってだけじゃなく、読む側との共同作業だ、と。
うんうん、読んでいるとき、まさにそうだなあ、と思ってしまった。
こうして本日の日記を書いているときにも。
よし、書店にいこう。
また新しい文章が読みたい。
そう思い立ったけれど、まずは、家にある本棚から読み漁ってみる。
あれ?そんな文章があったっけ?
気になってしまう文章が以前とはちがっている。
それでも、また新しい本が読みたくなっている。
あらゆるワケもあってからか、なんだか新鮮な気持ちが取り入れたかったのか、今日はなんだかスムーズに書店へ足が運びそう。
…が、しかし、その前にちょっと又吉直樹さんの動画でもみよう。最近面白くてみたくなっていた。
一個観れば、また次の動画が見たくなる…。うん、面白い。ふんふん、こう考えるのか…!思考回路が妙に面白くて、見入ってしまった。
うん、今回も書店はやめた。又吉さんの動画をみているほうが、今の自分にとっては必要に感じる。
いつも予想外。
変化していく。その都度。