今日から三連休が始まった。
何も予定がない。どうしようか?と考えていると、朝9時からさっそくインターホンがなり、近所の子から遊びのお誘いがあった。何軒ものいつも仲良くしている子が大集合し、結局、夕方18時までしっかり遊んでいた。しかも、我が家で。内心気が張って休めた気はしないけれど…まあ、ほかの家で遊んでいるほうが気が気でないのでそれはよれでよかったことにする。子どもたちの個性はいろいろあるけれど、しっかり互いに譲歩しながら穏やかに過ごしている光景をみて、ああ、いい環境で過ごしているんだな。とも思えた。あまりにものびのびすぎる気もするけれど、まあ、週末くらいは…と大目に見る気持ちで。
おかげで、家事も進んでいい日だった。あまりにも思い悩んで予定を無理やり詰め込むのはよくない。むしろ、家で過ごすと決めたのなら、それなりにやることも見つかったりして、それまた考えふけることもできて、有意義な時間にもなる。
いつも息子や誰かと偶然話す機会があると、自分にはこう見えたり、思うことがあっても決して相手も同じように思っているわけではないことに気づかされる。
そして、気軽に話すことができる人は少なくて、たとえ身内であったとしても話しておくのはよそう、話さないでおくことは大事だな、と思うこともある。自分が求めることと、他人が求めることも違っているということ。
大事なのは、話してもないのに自分の置かれた環境や立場、心情を汲み取って理解してもらえるような会話が継続する人には話そうかな、とまわりまわって結局この結論にたどり着く。何を言うかではなく、何を話さないでおくか、も大事だな、と。
今もこうして、自分自身が思い悩んでいることに対してこれでいいのか?という気持ちで書いて整理すると、とても気分が落ち着いてくる。
静かに、余白をもって。今できることについて、考えながら、
古代ギリシャストア派が、正しい選択をすることにエネルギーを注ごうとする。目標を達成できなかったフラストレーションは脇に置いて、自分がコントロールできることに全力を注ぐのがいいと説いている。
以前読んだ<think criary >というストア派に人生の影響を受けた著者の本の内容で、自由な時間ともっと楽しいことや幸せなことへの選択肢を奪うものならば、5秒以内で検討し決断した方がいいという内容が改めて今の自分の胸に刺さった。
あらかじめ想定していることに対して、自分自身が求めないものに対しての回避法やあまり複雑化させないようなシンプルな対応力、価値観というものが理解できていれば、ものごとについて何を避けるか、何をやめるか?の最善の選択ができる。それが幸福につながるのではないか、ということ。
たしかに相手や状況は簡単にコントロールはできない。あらかじめ性格や波長が合うという相性というものはあるな、とも思う。
自分でものごとを判断して行動しながら成長していくこと。
今ある環境ややるべき物事に対して、自分の仕事に一生懸命取り組み、自分の大事にしたい時間、作業に習熟したりして、いまの瞬間に集中して生きること。
誰にでも自分を尊重してもらいたいわけでもなく、互いに違うことを受け入れながら、適度な距離感で、たのしく付き合える人と共有しながら長い時間をかけて向き合うことを大事にもしたい。
最後に、今日久しぶりに読んだ<think criary>の一節より。
「現在の経験」を存分に楽しもう。
夕日を写真に撮るより、夕日そのものを楽しんだほうがいい。
すばらしい瞬間を積み重ねてできた人生は、たとえそれらの記憶が残らなくてもすばらしい人生に違いない。
経験を「記憶の口座」への入金作業にするのはやめよう。人生最後の日にはその口座はどのみち消えてしまうのだから。
たしかに、「もの」よりも生きてきた「経験」が残るというのも納得できるようになってきた。経験を活かして、次よくしていこう、とも思うようになってきた。
写真や映像で振り返ることもたまにはいいけれど、実物で話して見る我が子がいちばん愛おしいし、紙の本で読んで集中する、庭でみる植物たちの美しさを感じる、韓国の友人とのやりとりする、という時間は、自分にとっては格別。
そういえば、韓国の友人から一貫性があって変わらないことを<松の木のようだ>と表現するらしい。持って生まれた性質はほぼ変わらないから、こういう表現は自分自身を見つめる際には、とてもいいかもしれないな、と思った。
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