くらしのひとりごと

日常と頭の中で考えることがすきな日記的ひとりごと録。家好き、インドア派、田舎暮らし、読書好き。

積み重なる人生の中で

日常に嫌気がさしたとき、なるべく楽しくご機嫌に過ごせるようになるにはどうすればいいんだろう?と、考え込みたくなってしまう時がある。

これは、終始繰り返されるはず。

 

いつもご機嫌に過ごすことは簡単ではない。けれど、ナイーブな気持ちになってしまいそうなときの回避法。そんなものをなるべく掴みたくなる。

そんなとき、私は何をしているんだろう?どこから手に入れているんだろう?

考えてみると最近は、いくつか考えるための方法がある。

 

まず、ひとつめ。

いつも新鮮な気持ちと見解を手に入れるために、海外の異国に住んでいる人の暮らしを映画、動画、SNS、あらゆるコンテンツから見るようにすることがいい刺激になる。

 

“もし、私があそこにいるとしたら、どう感じるのだろう?”

いま住んでいる場所とはかけ離れているからこそ、気づけるいまある日常に感謝すること。

 

あとは、読書。

文章から想像してみるだけで、するりと、ときにはグサリと心に込み上げてくるものがある。それは、自分にとっては未知のようで、実はどこか近いもののように感じられあり。そんな感慨深くなるもの、心動かされてしまうものに触れることは、心を入れ替えるためにはとてもいい。

 

そういえば、あと、この前の週末のこと。

話は端折るけれど、朝食を食べに出かけたとき、考えさせられるできごとがあった。

 

簡潔にいうと、こんなことを思った。

自分とは違う境遇がそれぞれにあり、考え方は人によって変わるということ。そんなことをつい、受け入れがたくなったり、忘れがちになってしまう。言わないでおくべきこともあるだろうし、言い方によって理解の仕方も受け答えも変わってくる。そんなことだらけで、誰でも、理解の範囲は常に限界はあるということ。けれども、常にその限界をゆるめたり、伸ばしていくことも可能かもしれない。

とくに、それは、今の私だとしたら、いつも身近にいる親子関係を通してもいつも学ぶということ。

 

 

よく考えてみれば、いつも何気なく思い、起こした行動から起きた場面、偶然出会った人やふと見かけた人、いつも一緒にいる家族、気の知れた友人…

そんな日常にあるふとしたできごとから、考えてみる時間が生まれている。自分という人間がどんなふうに考え方に幅を持たせてみることができるか、という意識。その積み重ねの中によって、変化していく頭の中にある考えこそが、自分のなかの人生物語として誕生していく…。

いろんな物事から考える視点は、まだ計り知れない考えがあることに気づく。

 

一歩引いて、一呼吸おいて。ちょっと待ってみて。もう少し様子見てみよう。考えてみよう。むやみに自分の真っ先にででくる感情を鵜呑みにしないで、介入しすぎないように。

いつも身近にいる人ほど、気にしたり親切にしたいという気持ちが芽生えるのは当然のことではある。理解を深めてみるという時間は、きっとどこにいてもどんな場所であろうと、いろんな視点もみえているはず。

 

実際のところ、私の性質上、人と密に関わり合うことはどうしてもちょっと一歩手前に引いておいてしまう。でも、最近は、そうであってもいいような気がする。そのくらいがちょうどいい距離感で、再確認できることも多いんじゃないかな、と。

過ぎ去ってくような出会い、景色化されたような、ふだん気にならないような部分…そんな場所を見つめながら、考えながら。

 

普段の生活の中でも、心配や懸念は絶えない。それでも予想と違う展開に安堵したり、感謝したくなることもある。

きっと、昨日と今日は、かなり違うはず。

 

 

追伸。

前回投稿した読書感想文混じりの日記に、作者本人さんからX宛で、感想について、ありがとうございます等のメッセージが届いていた。わあ、そんなこともあるんだなあ、となんだか、嬉しくなってしまった。ホッ…。

こういうことは何回かある。

 

今年にはいって投稿したブログにもこう書いていたけれど、

言ってみて、たしかにいいこともあるみたい。

もちろん、そうとは限らないけれど。