その場面は鮮明に忘れてしまったとしても、記憶として頭の中にずっとこびりついて残り続けるだろうなという経験はいくつかある。その経験が生きる意味として、ときどき強く思い出されるようなときがある。
少なからず、人生の中で印象的な経験をしてきた訳だけれど、
実際いまだに、こういう瞬間にはどう対応したらいいのかよくわからない。
ただ、ひとつ言えることは、その思い出とともに今後も生きていくしかないだろう、ということじゃないかな。
どんなに苦しかったり、幸せだったりした経験も、それがあったからこそ、いまに生かされている。いや、そうであってほしいな、という思いを抱えながら、たとえ過ぎてしまったことだとしても、いま、なにができるかな、と考えていきたい。その思い出によって、生かされていると実感するときもよくある。
その思いを真似にひめながら。少しずつでも前進できるよう生きていこう、と思いながら。
:知ること
多方面からあらゆることをききすぎると、何が言いたいのか、何が知りたいのか、わからなくなってしまうときがある。
そして、だれかと話すときも、自分がら話したい内容と言葉がうまく噛み合わなくなるのを、感じるときがある。
ずいぶんと難しく考えすぎると、望んでいるような会話はしにくかったりする。
たとえば、家族な慣れ親しんだ人とは、なんの内容もないような話ばかりをする。そのとき、そのときに湧き出てくるような話をするときが、いちばん楽しくて幸せかもしれない。
満足感のある会話というものは、けっこうその時々で、話したいことが自然にあれこれ思い浮かんできたり、話すことができる状態なのかも。
いろんな生きる知見は知りたいけれど、知りたくないことまで知ってしまい、余計に複雑になりやすくもなってしまうときがある。
あまりにも多くのことをみすぎると、ダメージも受けやすくなってしまう。
だから、最近は、ふだんの日常の中で、支えになるものだけは必ず目を向けて。そういうもとの中で、慌ただしくなりやすいことへも対処できるほどの幸せ感は、忘れないで。くぐり抜けて生きてこうとおもう。
:わからないからこそ
子どもたちの冬休みが始まったと同時に、なんだか少し気分のコントロールが途端にむずかしく感じ始める。
一緒にいる限りは、堕落しないように過ごして貰いたいと思うものの、自分自身の時間と個人の時間の確保との葛藤が忙しい。
ワケもわからずに落ち込んでは、なんとなく心当たりをたどって、また落ち着いていく…その繰り返しで、日々に対する耐性がついてくみたい。
というわけで、夜読書が久しぶりにしたくなった。久しぶりに。
本が好きになったきっかけをくれた一冊の本が読みたくなった。どこか自分の中に新しい風を吹かせてくれ、心の支えになったエッセイ。
その本には、韓国の友人から届いた手紙をしおり代わりに挟んでいる。韓国エッセイというのもあって、ふだん自分の自分の話しにくいことも話せる数えるほどしかいない存在だという友人が送ってくれた手紙をしおり代わりにはさんでいる。
だからか、その本を読むと、なんだか自分の大事な初心に帰らせてくれるようでもあり、気分が満たされる。
たとえば、気持ちがどんよりしそうになるとき、お気に入りの本を読んだり映画を観ると気分の入れ替えになる。選ぶ作品もそのときどきピンポイントで、その中に含まれるとわこか心の支え、慰めになる場所を知っていて、選ぶみたい。
読んでいると、もう少し穏やかに、機転を効かせていきたいものだなあ、と思った。
やっぱりこうしてまとまりのないながらにも、日記をつけていくと、日々の原動力になっている気がする。
むしろ、いつもまとまりのないことばかり考えているんじゃないかな。すべてわかり得ているのであれば、こんな複雑な感情になることはないのだから。 ・・・うん、生きている。ただ、こうして考えながら書いてみると、ふとそんなふうに思えてくる。